ザ・ブリッジ / スティーブ・キャバレロ・エクストリーム

by Kurt Hurley

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1970年代後期~1980年代前半迄に全米中のスケートボードパークは次々と閉鎖されていきました。しかし、同じ頃、ハーフパイプなどの新しいキャンパスも生まれ始め、これらのムーブメントはカリフォルニアから東海岸迄と広まって行きます。

これらのムーブメントの中心になったのは若い世代で、彼等はレジェンド達がそれまでに築き上げた物を時代に合うよう、磨きをかけ、適合させ、スケートボーディング自体を生まれ変わらせる事に成功します。のちにこのムーブメントはスケートボード業界のみにとどまらず、音楽界、ファッション界迄をも震撼させるレベルにまで発展し、今日のスケートボードに至るのです。

彼等の名前は トニー・ホーク、ゲーター、マクギル、ホソイ、ゴンズ、エディー・エル・ガトー、そして。忘れてはいけないのが、北カリフォルニアの小さくてイカしたヤツ、スティーブ・キャバレロ。

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Photo: Heidi Lemmon

体が小さいゆえ、チームスポーツでは決して人気者とは言えなかったスティーブ。しかし、そんな事でへこたれる彼ではなく、逆境は彼の競争心に火をつける事になり、のちにスティーブはスケートボード界のカリスマへと登り詰めるのです。 今回はそのスティーブから1980年代頃の話を聞く事が出来ました。ランプの革命、パンクロック、そして今日のスケートボードを(ダウンヒルとロングボードも含め)彼はどう見てるかのインタビューです。

Interview by Kurt Hurley

KH:幼少の頃は何に夢中でしたか?

SC:ガキの頃はホントにチビで、近所の子供達の仲間に入れてもらえなかったから、ブルースリーやイーブル・カニーブル(オートバイのスタントマン)に夢中だった。沢山コミック・ブックも読み漁ったし、その影響でヒーロー物に憧れるようになり、一時はBMXのライダーになりたいと考えた時期もあった。実家は決して裕福では無かったので、スケートボードショップなどの存在すらしらなかった。買い物の全てが近所のデパートだけだったからね。

KH:何がきっかけでスケートボードの世界に足を踏み入れたのですか?

SC:当時、鉄のウィールを装備したHang Tenのスケートボードを持っていたけど、これはオモチャのような物で、プロ仕様の物では近所の店で買ったTy Page Free Formerが最初の物。一度家族でアナハイムのディズニーランドへ行った際、近くにコンクリート・ウェイブ・スケート・パークが有ると知り、そこに連れてってもらったんだけど、とても難しく感じた事を覚えてる。

KH:その事がきっかけでスケートボードにのめり込んで行ったのですか?

SC:そうだね、その後からキャンベル・スケートパークへ通うようになった。キャンベルに行ってたのはウィンチェスターより安かったらだけど、キャンベルではコンテストなどが定期的に行われ、ローカルなコミュニティーが根付き始めていた事も気に入ってた。ウィンチェスターも良いスケート・パークだったが、年に一度位しかコンテストのようなものは行われず、経営者は利用者の事を何とも思ってない感じがしたね。当時の俺はとにかく競争心が激しかったので、コンテストには次々エントリーした。これにより技術も進歩し、ついにはコンテストに勝つようになり、景品のアイスクリーム券、スケートパーク無料利用券、などを貰えるようになった。その後、更にレベルの高いコンテストなどにエントリーするようになったのさ。

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Japan air at Mount Trashmore. June 1985 Photo: Jim Goodrich

KH:Stacy Peralta/ステイシー・ペラルタとはどのように知り合ったのですか?

SC:1979年の年末にエスコンディドにて行われた全米アマチュア・コンテストにキャンベル・パークのチームメンバーとして参加するために行った。その時俺は5位だったんだけど、審査員がステーシーとスティーブ・キャッシー(Steve Cathey)で、コンテスト終了後、Powell / Peralta(パウエル/ペラルタ)に誘われたんだ。

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Backside air circa 1980. Photo: Scott Starr

KH:当時、スケートボードの世界をどのように捉えていましたか?

SC:まったく考えてなかったね。ただ当時はスケートボードパークがあちこちに建設されていて、まさしくピークって感じで、エキサイティングの時期だったよ。

KH:しかし、その後スケートボード・パークは次々と閉鎖されていきました、、、、。

SC:そうだね、だから俺たちは人の裏庭にあるプール、水路、又は歩道の赤く塗られた部分(ペンキが塗ってあり滑りやすい)でもよく遊んでた。ウィンチェスターが取り壊された時の事は良く覚えてる。どうしてもランプで乗りたくて、母親に「裏庭にランプを作りたい」と頼んだ。ランプの材料は友達( Naman Poon )のお父さんが出してくれて、俺とギャビンと コーリー・オブライアンで裏庭にランプを作ったんだ。

KH:過去にランプを作った事はあったのですか?

SC:勿論さ。その頃は色んなスケートボードマガジンでランプの作り方を特集していたしね。

SC:Chin(アゴ)Rampだね。4日間しか公開されなかったので、利用してるのが俺たちだけだった。一回だけで良いからレジェンドを集めたプロ・イベントで復活させてほしいね。

KH:1980年代、何処でスケートボードに乗れるか等の情報は、どのように集めたのですか?

SC:人づてや、雑誌Thrasher Spot Check、Action Now、Skateboard Magazineで情報を集めたりしていた。

KH:パンクロックとの出会いは?

SC:スケートボードにのめり込む前はロック・ミュージックは別に好きでもなく、ソウルやR&B、ディスコなどを聞いてた。何故ならスケートボード・パークでかかっていた音楽はそういう音楽だったからで、当時の自分は皆と同じでいたかったんだ。しかし、その後、母親にAC/DCのアルバムHIGH VOLTAGEを買ってもらった。このアルバムを聞く事により、より良いスケートボーダーになれると信じてたんだ。そこからゲーリー・ニューマン、ポリスなどを聞くようになり、ステーシーにカーズを教えてもらった。この頃RAT''S ASS(ネズミのケツ)と名乗るヤツを通してBUZZ COCKS、999、TSOL、ADOLESCENTS、THE DEAD KENNEDYSなどを知り、パンクの世界へと入って行ったのさ。

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Five-O grind at the El Gato Classic 2015. Photo: Heidi Lemmon

KH:バンドFACTIONはどのようにして生まれたのですか?

SC:メンバーは俺、ギャビン、コーリー・オブライアン。バンドを始めたのは散々パンクバンドのコンサートに行っていて、自分達のバンドを作りたくな成ったからで、サンホゼのパンクシーンでは最先端を行ってたと思う。

KH:バンドFACTIONの活動期間は?

SC:俺、ギャビン、コーリー・オブライアンで活動したのは1982~1985の3年間で、1989年ジェフ・ケンドールを迎え入れ、しばらく活動した。2001年から2004年の間もバンドは活動したけど2012年以降は時々コンサートをする程度になってる。

KH:ダウンヒルに関してのあなたの考えを聞かせてください。

SC:正直あまり考えてない。興味ないからかな、、。ダウンヒルは楽しそうには見えるんだけどね、、。確かにスケートボードパークが閉鎖されてた頃はサンホゼのダウンタウン、もしくは滑れる所はどこにでも行ってた。ダウンヒルがチャレンジングである事は認めるけど、俺はスケートボードパークが一番好きだね。

KH:ロングボーダー達の事を悪く言う、一部のスケートボーダーに対してないかコメントはありますか?

SC:人って、自分が良いと思うもの以外のものが突然現れてシーンが盛り上がってくると、まず否定する事から始める。俺は人々には選択権があると信じてる。その選択により人生の方向が変わってくる。多くの人は「俺の時代が一番良かった」というが、俺は「今」が最高だと思ってる。今はこんなに選択肢があるんだからさ。

KC:あなたにもっとも影響を与えたのは?

SC:俺にとって一番大事なのはイエス・キリストさ。キリストの教えはあまりにもレベルが高く、俺たちは日常の生活レベルでしかキリストの教えを理解し、応用出来ないけど、その教えから、人生、そして他の人々に対しての理解と、エゴ、プライドを捨てる勇気を学んだ。

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Invert at Mt. Trashmore thirty years ago! Photo: Jim Goodrich

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この記事は ConcreteWave June 2015 The Bridge Steve Caballero の抄訳です