ザ・ブリッジ / ザ・ターニング・ポイント・ランプ・エクストリーム
The Bridge 怒濤の70年代が終わり、各地のスケートボード・パークは収益が激減。パークの管理体制などに伴う裁判沙汰も起きる自体にまで発展しました。最終的に残されたスケートボード・パークは、難易度の高いパークばかりでお金を払わずとも入場出来るプロレベルのライダーのみがいる状態で、スケートボード・パーク経営はビジネスとしても下火になって行きました。 1980年代初頭にはスケートボード・パークはほぼ絶滅。これに伴い、残されたスケート・ボーダーはハーフパイプに活路を見いだすのです。
The Turning Point(転機)Ramp
アルバ、ジェイ、オリーなどの活躍もあり、1980年代初頭までスケートボード・パークは大きな盛り上がりを見せました。パーク内のプールもドンドン大きくなり、それに伴い新しい技も沢山生まれました。しかし、これらのパークが揃って閉鎖され始めるのです。 私が当時フロリダで通ってたスケートボード・パークには大きめのプールが2つ、そしてピーナッツのような形をしたプールが一つある所でした。そこにある日、それまで見た事も無い物体が現れました。駐車場に置かれたそれは巨大なカプセルのような物で、とてつもなく興奮した事を覚えています。この物体は「The Turningpoint Ramp/ザ・ターニング・ポイント・ランプ」と言い、スコット・セナター氏により開発された物。彼自身もスケーターであったが、スケボーを次のレベルに押し上げた当事者の一人とも言えます。ここからは彼とのインタビューを楽しんで頂ければ幸いです。 by Kurt Hurley
インタビュー
カート・ハーリー:1979年頃からスケートボードは人気が下降して行った記憶がありますが、あなたは当時の事をどのように覚えていますか?
スコット・セナター:まずは当時のスケートボード・パークはスケーター達によってデザインされた物ではなく、ビジネスとして開発された物だった事を忘れてはいけない。ビジネスだったので、当然お金を払わないと入場出来ず、パークのオーナー達のプライオリティーはお金を稼ぐ事だった。とにかく金、金、金だったのさ。
カート・ハーリー:あなたはどうやってザ・ターニング・ポイント・ランプを開発したのですか?
スコット・セナター:私が作る前に既に幾つか存在していた。一つはVANSが所有していて、それはプレキシグラス(アクリル樹脂)の物だった。もう一つはFire Stoneが所有してたはずだ。そんな頃プロ野球のチームからハーフタイムでスケートボードのショーが出来るように移動可能なランプは作れないかと打診された。
カート・ハーリー:何故カプセル状になったのですか?
スコット・セナター:カプセル状になった経緯は、長いプール状の先にドームのような形状なら、ライダーがハーフ・パイプ、フル・パイプ、長円形など様々な形状に乗れ、尚且つ一回転も出来るからさ。
カート・ハーリー:でも当時誰も一回転なんてやった事がありませんでした。
スコット・セナター:難しいだろうとは思いましたが、、絶対可能だと確信していました。
カート・ハーリー:ザ・ターニング・ポイント・ランプの制作費はどのようにして捻出したのですか?
スコット・セナター:私の母のボーイフレンドがチームの代表で(私は副社長でした)、彼はサイドビジネスでフロリダに拠点を置く薬物の密輸グループに関わっており、薬物で得た儲けを帳簿上何処かに隠す事が必要だったので、お金はそこから来ました。フロリダの連中は「Skateboard Madness/スケートボード・マッドネス」というドキュメント映画にも関わっており、彼等はザ・ターニング・ポイント・ランプを映画の中で取り上げるよう望んでいました。しかし、映画はドキュメントからフィクションになり、結果ザ・ターニング・ポイント・ランプは最後のシーンでのみ使用されたのです。
カート・ハーリー:ザ・ターニング・ポイント・ランプがどのように作られたか詳しく教えて頂けますか?
スコット・セナター:母のボーイフレンドはいちいちやる事が大げさな人でした。制作段階ではかなり揉めました。私としては、後に販売する事を考えて制作費を極力おさえ、簡単にばらせるよう、プレシキグラスと鉄で制作したかったのですが、彼は樹脂とアルミで作ったのです。お陰で制作費は凄く高くなり、同時に壊れても簡単に直せないとんでもない代物が完成したのです。自分としては立派に作りすぎた感が拭えなかったのです。結果として、ビジネスになるような物は作れませんでした。しかし、重力の壁を越える物が完成したのです。
カート・ハーリー:どのような過程を経てザ・ターニング・ポイント・ランプはフロリダのフォートラダーディルにある「ソリッド・サーフスケートパーク」に辿り着いたのですか?
スコット・セナター:当時、私の母とザ・ターニング・ポイント・ランプの制作費を捻出した母のボーイフレンドはフォートラダーディルに住んてました。又、当時「ソリッド・サーフスケートパーク」はフォートラダーディルではナンバーワンのスケートボードパークで、映画「スケートボード・マッドネス」の殆どがそこで撮影されるという話もあった事もその理由です。
カート・ハーリー:その頃は変革の時期でとても楽しかったのを覚えています。当時の僕にパンクロックやポリスの音楽を教えてくれたのもあなたでした。
スコット・セナター:ほんと、楽しかったね。ケント(私の兄)とジェリー・ヴァルデズがアロー・スケートボード在籍時代、ヨーロッパ遠征時に体験したパンク・ロックの音源を僕にお土産で持って帰って来てくれたんだ。ザ・ターニング・ポイント・ランプの実現化の前の話だよね
カート・ハーリー:ザ・ターニング・ポイント・ランプ内で一番最初に一回転出来たのは誰ですか?又、他に覚えてるライダーはいますか?
スコット・セナター:私の兄/ケント・セナターが一番最初にチューブ内で一回転する事に成功した。その後ジェリーが出来るようなり、ジェリーは連続2回転にも成功した。その他で覚えてるのはブラッド・ボーマン、スティーブ・リップマン、ジム・グレイストーク・グレイ、スティーブ・カベロ、そして忘れてはイケナイのがトニー・ホークだ。
カート・ハーリー:その後、ザ・ターニング・ポイント・ランプはどうなりましたか?
スコット・セナター:フロリダからニュージャージー迄、アメリカの東海岸をあちこち回ったあと、最後はカリフォルニアのマリーナ・デルレイ・スケートパークに辿り着いた。しかし、その後、母のボーイフレンドが薬物の取引で逮捕され、全ての私財を売るハメになり、ザ・ターニング・ポイント・ランプも解体され、それぞれが売られて行った。噂では一部はワシントン州にあると聞いた事があります。
カート・ハーリー:ザ・ターニング・ポイント・ランプを一番高く評価してくれたのは誰ですか?
スコット・セナター:それならグラインド・ラインのシャギーだね。現在私はハワイ州/マウイ島に住んでいますが、当時、マウイ島でスケートボード・パークを作ろうとしてた人達がグラインド・ラインにコンタクトしたところ、グラインド・ラインは彼等に私の事を紹介したんだ。 シャギーに「彼らのデザインにある卵形のクレーターはザ・ターニング・ポイント・ランプの影響を多く受けている」と言われた時は20年も最前列から離れてたので信じられなかった。「マウイ島で建設されるスケートボード・パークに卵形のクレーターを盛り込みたいので、デザインをフェイスブックで確認してくれないか?」と’言われた時は本当に嬉しく、高く評価してくれたシャギーに感謝しています
インタビュー後記
スコットの作ったザ・ターニング・ポイント・ランプは過去に前例が無く、時代を先取りした斬新な物でした。ザ・ターニング・ポイント・ランプの登場はその後のスケートボード・パーク建設に大きな影響を与え、映画「スケートボード・マッドネス」でも紹介されたにも関わらず、スコットもザ・ターニング・ポイント・ランプも大きな評価を得ていません。 スコットは手首を負傷したのを後に、スケートボードの世界から去り、現在はハワイで静かに暮らしています。50歳を過ぎた今でも、アグレッシブにスケートボードを楽しむ数少ないスケーターなのです。
この記事はConcreteWave Vol.13 No.5 Spring 2015 the Bridgeの抄訳です。